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0線の映画地帯 鳴海昌平の映画評

『ストリート・ファイター ザ・レジェンド・オブ・チュンリー』




アンジェイ・バートコウィアク『ストリート・ファイター ザ・レジェンド・オブ・チュンリー』、

春麗(チュンリー)は父母と幸せな生活を送っていたが、ある日、屋敷を訪れたベガと部下バイソンが父を誘拐する。

その後美しく成長した春麗=クリスティン・クルックは子供の頃から憧れていたピアニストとなり、病気を抱える母を支えて生活していた。

ある日、公演を終えた春麗のところに謎の絵巻物が届いたため、それを解読しようと古本屋の女主人に見てもらうと、女主人は「バンコクへ行き、今の生活を捨ててゲンという男を捜せ」と春麗に告げる。

母が死んだ後、バンコクへ旅立った春麗は貧民街のストリートで生活してゲンを探すが、中々見つからなかった。

だがある日、チンピラが老人を襲うところを見て、春麗は父から教わった中国拳法でチンピラたちを退治するも、それまでの疲労の蓄積から倒れるが、目を覚ました時声を掛けてきた男はなんとゲンだった。

ゲンは元はベガの親友で悪かったのだが、改心してベガと別れ、弱者のために戦う”スパイダーウェブ”を組織していた。

実はゲンは、春麗を密かに自らの元に導き、見守っていたのだった。

父がまだ生きていて、その広い人脈をベガに利用されている事を知った春麗は、父と再会したがるが、ゲンは、まず怒りを消して冷静になり、真の強さを手に入れろと春麗を諭す。

教えを受け入れた春麗は、心を鍛え、拳法の腕を上げていく。






カプコンの対戦型ゲーム「ストリートファイター」シリーズのキャラ、春麗を主役にしたアメリカ映画。

いかにもゲーム映画っぽいストーリーボードの上を、ひたすら流れていくような映画である。

そもそもゲームのストーリーというものは映画のストーリー展開の模倣だと思うのだが、その模造品のストーリーを映画が逆になぞり直すと、どうにもわざとらしい感じが否めない映画になってしまうことが多い。

だからどうしても不自然さが付きまとう”ゲームっぽい”映画になってしまう。

三池崇史をもってしても、「龍が如く」は極めて不自然な”ゲームっぽい映画”になってしまっていたし、まあそうなりやすい傾向が強いのだろう。

別に主役の春麗=クリスティン・クルックは好演しているのだが、そういう元々の不自然さが延々邪魔に感じられる映画である。

あれだけ恋い焦がれていた春麗の父が、後半あっさり春麗の目の前で殺されてしまうのだが、ゲームの映画だからか、やたらに展開優先で、父を目の前で失った春麗のショックや悲しみは極めてテキトーにしか描かれない。

元は悪の手先だったゲンが、改心した心理的プロセス描写もロクに描かれず、ただ設定上、善玉にキャラ設定が変わっただけみたいになっているところも不自然である。

悪人とは言え、親友だったベガとの葛藤すらロクに描かれず、ゲンのキャラ設定が変わったから、ただの善対悪の対決としてしか描かれないテキトーさである。

なんでも設定、設定、キャラ変更したらそれまでの心理的内実全部無視してバトル展開が描かれていくだけの、ゲーム特有のクソつまらなさが不自然さとして顕れまくっている映画である。

こんなもんゲームでやってろ、と言うしかないが(苦笑)、まあ一応役者陣が悪くないし、アクションが展開するので物凄く退屈というわけではなく、それなりには見ていられる一篇。 2018/05/26(土) 00:05:15 外国映画 トラックバック:0 コメント(-)

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