0線の映画地帯 鳴海昌平の映画評

『愛するとき、愛されるとき』




瀬々敬久『愛するとき、愛されるとき』再見、

「魔法使いゆこりん」というブログのブロガーで事務員の江澤翠は、田舎町で生まれ育ち、平凡な人生を送っていた。

ある日、妹の晶エリーを助けるために、怪しい河合龍之介に野外でHな写真を撮られるが、だんだんそれが快感になっていき、新たな自分を発見していく。




『Love and Eros CINEMA COLLECTION』第3弾の映画。

陽光に照らされた緑や海などの自然を背景に、快楽から愛に目覚めていく江澤翠のメタモルフォーゼが描かれていく。

全編動きまくるカメラワークには、デジタル時代に入っていく映画界において、映画的な生々しさをいかに残し、獲得していくかということへの渇望も感じられ、その生々しき映画的なモーションピクチャーの動態の中で、一人の女性の解放的なメタモルフォーゼが活写されている。

瀬々敬久はこういう映画的アプローチを前にもやっているが、この映画はまだ半端だったかっての実験性を、わりと説得力ある出来に生成してはいる。

しかし、その動きまくるカメラワークも、ある程度するとパターン化したマンネリな動きに見えてきて、妙に定番な女性解放映画に見えてしまうのが惜しい。

しかも江澤翠は熱演しているものの、こちらの想定内の変身ぶりにしか変態しないので、この「一人の女性が性的な快楽から自身を解放しメタモルフォーゼする」という昔からよくある女性解放物語すらもが、カメラワークのマンネリぶりと並行して、ありがちなものに見えてしまうという退屈さがある。

尋常じゃない不均衡な画面やメタモルフォーゼが事故的に生成するようなヤバさが足りないので、単に映画としての志が高いだけの優等生映画にも見えてしまうのだ。

役者陣は江澤翠も河合龍之介も、呆けた父親役の志賀廣太郎も皆熱演しているのだが、動きまくるカメラワークのマンネリ化と、事故的なヤバさを欠いたメタモルフォーゼの飽和に結局飲み込まれてしまっている。

「映画としての志の高さ」というものが、いかに難しいものかと考えさせられる映画だ。

瀬々敬久の作家性が全面に出た、映画としての志の高さが終始感じられる映画、などという申し分のない作品が、それがマンネリしてパターン化したり、はたまた事故的なヤバさを欠いてしまうと、ただの優等生映画に反転してしまうという皮肉な残念さに陥っている映画だと思う。

所謂良い映画、志の高い映画の部類に入るのに、そういう問題点も抱えている一篇。 2018/04/17(火) 00:23:20 その他 トラックバック:0 コメント(-)

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