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0線の映画地帯 鳴海昌平の映画評

『セッション』




デミアン・チャゼル『セッション』再見、

マイルズ・テラーは、名門音楽学校に入学し、世界的なジャズドラマーを目指していた。

だが、鬼教師として有名なJ・K・シモンズに目を掛けられ、喜んでいたのも束の間、シモンズはマイルズの演奏を罵声しまくり、完璧な演奏をさせるためには暴力すらふるった。

ビビりながらも、マイルズはシモンズの厳しいスパルタ指導に付いていくが、しかしシモンズのレッスンはさらに狂気を孕み、マイルズは追い詰められてゆくが。





今や次の作品「ラ・ラ・ランド」が有名なデミアン・チャゼル監督の様々な映画賞に輝いた出世作。

名門音楽学校で一流のジャズドラマーを目指す青年と、狂気じみたスパルタ的指導をする教師の姿が描かれた、よく言われるように、音楽版「巨人の星」のような音楽映画である。

マイルズはどんどん星飛雄馬に見えてくるし、シモンズは星一徹に見えてきて仕方がないので、もし星一徹の声優、加藤精三氏がご存命だったら、マイルズ(古谷徹)、シモンズ(加藤精三)の吹き替え版が見たかったなとついつい思ってしまう。(笑)

シモンズは厳しいけど実はいい人、では全くない。

人間的にはクソみたいな奴だし、執念深く、学校をクビになってもテメーの行いを反省などせず、それどころか自分の暴力指導を証言したマイルズを最後、罠にハメようとするのだから、最後の最後までクソ野郎である。

だがそれが、この映画の最後まで持続する緊張感に功奏している。

シモンズは徹底的な悪役だが、しかし真のジャズの瞬間を実現することには狂気的なまでの熱意を持っている。

ほとんど被害に遭っているようなマイルズは、この極悪人のようなシモンズを憎んでいるが、しかしマイルズも、真のジャズの瞬間に触れたいという願望は強烈に強いのだ。

二人はかって、チャーリー・パーカーが伝説的な演奏をした瞬間を体現したいという狂気的なまでの熱意という点では共通しているのだ。

ラストはシモンズの狂気の熱意に食らいついていく犠牲者のようだったマイルズに、シモンズの悪意がきっかけになって、シモンズが持っていた狂気の熱意がマイルズに乗り移ったように爆発し、そこから、いつの間にか二人で、真のジャズの瞬間への狂気の熱意が加速していき映画は終わる。

このラストには前段のチャーリー・パーカーの奇跡を語るシモンズの話が伏線としてバッチリ効いている。

この映画に対して、ジャズミュージシャンの人気者が、演奏がヘタなのでダメ、音楽が救済になっていないとか批判していたが、まあ確かに音楽映画で演奏がうまくないのは良いことではない。

かってのハリウッドの音楽映画は演奏そのものも唸らせるものがあったし、音楽のジャンルもパンクではなく、スキルの高さが評価の対象に大いになり得るジャズである。

それにこの映画は、一流の音楽学校で技術を習得している学生と鬼教師の話だから、うまくないことが、幾ら作り物の映画とは言え、そう褒められた話にはならない。

しかし、たとえばオーディション番組では、荒削りで、プロと較べれば技術的にまだまだ稚拙だが、プロ以上に観客を高揚させるパフォーマンスが巻き起こることはよくあることである。

実際ライブなどでも、演奏ヘタなのに何故か異様なパッションを感じさせるバンドがいる一方で、楽器の演奏は抜群にうまいが、退屈なパフォーマンスにしかなっていないバンドというのはよくある。

映画の中でシモンズは、最も嫌う言葉は、グッジョブだと言っていたが、この映画は、演奏はうまいがグッジョブな音楽だらけになってしまったジャズ他音楽界に対する批判的な意味合いがあるのではないかと思う。

だから、グッジョブな音楽など最悪だと言ってる映画に、ジャズミュージシャンがグッジョブじゃないからダメなどと批判するとは、もはや苦笑するしかない。(苦笑)

それはつまり、そのジャズミュージシャンがグッジョブしかやって来ていないから、そんなことにも気がつかないのではないかとしか言いようがない。

まるで「狂い咲きサンダーロード」にヘタだからダメというほどの不毛さを感じるのだが、しかしまあ「狂い咲きサンダーロード」だって、あまり巧くはないのは事実で、プロの映画と較べれば素人映画丸出しだとは思うし、それにプロミュージシャンが、この映画大絶賛の嵐の中、ミュージシャンとして言うべきことを言ったという誠実さは感じるので、このプロのジャズミュージシャンとしての批判は悪くない批判だとは思う。

それに、幾らチャーリー・パーカーの奇跡を目指すにしても、せめてグッジョブな演奏以上のことを行なった上で目指してくれよという、プロとしての意見という気もするので、それなら、それはそうだとも思うのだが。

ただ願わくば、このジャズミュージシャンには、この映画のチャーリー・パーカーを目指そうとしたような狂気じみた情熱(仮に技術的にはまだまだ追いついていないにせよ)を、グッジョブばっかりやっていないで目指してほしいなとは思うのだが。

プロのミュージシャンが、映画の中の演奏の良し悪しをジャッジするのは傾聴に値するし、映画が大絶賛されてる中での批判というのは誠実でいいと思う。

しかしラストで、シモンズがマイルズへの復讐の憎悪にかられていた時に、そのシモンズが、かって夢想していたはずのチャーリー・パーカーの奇跡の匂いを、マイルズの、技術はまだまだだが、その狂気の演奏から感じ取り、次第にマイルズと共闘していったあの姿を、プロのミュージシャンには見習ってほしいと思う。

自分はプロで演奏がうまい、ヘタな奴はそれ以下、故に自分の方が上などとマウントを取って喜んでいれば済むほど、音楽は単純なものではない。

そういう態度で音楽に向き合っていることこそ、シモンズの嫌うグッジョブと言うのではないか。

つまりこの映画は、プロのミュージシャンが一番批判したい映画であると同時に、プロこそが忘れてはならないものが描かれていると思う。

それがわからず、マウントを取ってグッジョブばかりやってるだけの文化人ミュージシャンになって喜んでいるだけなら、そいつはそれまでのグッジョブミュージシャンでしかないのだと思う。

どうかそれで終ってほしくないと願うばかりだ。

この映画は、素人の音楽リスナーからしたら、その「巨人の星」的な狂気のスパルタ映画の展開の魅力と、ラストでチャーリー・パーカーの奇跡を目指すのを主導するのがシモンズからマイルズに変わっている、その転換が巻き起こすクライマックスの迫力で楽しめる映画という感じがするのだが、プロのミュージシャンにとっては、プロとして演奏に批判的にならざるを得ないにも関わらず、プロだからこそ忘れがちな原点が描かれている映画という深い意味合いがあると思う。

どこか、プロのミュージシャンが、うまいだけのグッジョブミュージシャンで終わるか否かの踏み絵のようなところがあるように思える。

そんな中々意味深な秀作だと思う一篇。 2018/03/10(土) 13:44:40 外国映画 トラックバック:0 コメント(-)

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