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0線の映画地帯 鳴海昌平の映画評

『バルタザールどこへ行く』




ロベール・ブレッソン『バルタザールどこへ行く』再見、

農場の息子と教師の娘は、一匹の生まれたばかりのロバを拾い、バルタザールと名付ける。

10年後、牧場をやっている父と、成長した娘のアンヌ・ヴィアゼムスキーのところに、バルタザールが逃げて来る。

再会を喜んだアンヌはバルタザールに夢中になるが、パン屋の息子のフランソワ・ラフアルジュはロバに嫉妬し、彼の不良グループが何かとバルタザールをいじめる。

その頃、アンヌの父と牧場王の間に訴訟が起き、10年ぶりに農場の息子で成長したヴァルテル・グレーンが帰って来るが、アンヌは彼に興味がなく、訴訟がゴタついた結果、バルタザールはフランソワの家へ渡される。

その後、アンヌはフランソワと付き合いだし、不良仲間に入って、バルタザールのことを忘れてしまう。

裁判はアンヌの父が敗訴したものの、ヴァルテルは善処を約束し、アンヌに求婚するが。




ロベール・ブレッソンの傑作。

奴隷のような扱いを受けるバルタザール=ロバの無垢な視点を通して描かれているので、人間のロクでもない本性が丸裸になって視覚化されてしまう映画である。

ヒロインに見えるアンヌ・ヴィゼアムスキーすら、人間のどうしようもなさを露呈させているし、フランソワ・ラフアルジュに至っては、犯罪映画ならたかがしれたショボいチンピラでしかないが、ロバの無垢な視点を通すと、そんなショボいチンピラが、いかに人間のクズのクソゴミ野郎でしかないかを、これでもかとばかりに如実に視覚化されている。

つまり巨悪というわけではない、人間の欲と倫理の間で葛藤したり、ショボいチンピラという、わりと普通の人間に近い存在すら、人間はみんな腐り切っているということや、悲惨な目に遭う善玉すらバルタザールのことなど実は歯牙にもかけていないという非情さが、有無を言わさぬほど徹底的に視覚化されており、そういう意味では究極のパンク映画である。

まあバルタザールに近い視線の持ち主は、せいぜいヴァルテル・グレーンだろうか。

彼は子供の頃、バルタザールを拾った時のままに近い視線の持ち主であり、それ故に、そこから離れて行くアンヌの悲しいまでのどうしようもなさが露呈してしまうのである。(そのヴァルテルとて、アンヌを手に入れたいことと、裁判に敗訴したアンヌの父への善処を、交換条件にしているところがあるが)

全編にわたり、「ラルジャン」や「抵抗」だけでなく、この映画もやはりブレッソン的な「手」の映画であり、絶えず描かれる、この「手」の触覚的な運動が生々しい映画触覚性を絶えず喚起し、映画自体も、どこもかしこも「映画そのもの」の画面の連続のような作品になっている。

また同時に、ブレッソン的な強烈な視線劇も生々しく描かれているが、特に圧巻なのは、バルタザールが他の動物と視線を交わす場面だ。

バルタザールは、人間共に奴隷扱いを受け、愛するアンヌにまで忘れられているのに、同じ動物たちすらまるで仲間ではなく、ただ咆哮を浴びせられ、冷酷な視線を向けられるだけという、苛酷な孤独さがここで浮き彫りになり、そこにバルタザールが生きる世界の冷酷と非情が如実に出ている。

ラストも、犯罪にバルタザールを無理矢理利用したフランソワのゴミ共は逃げ去り、彼らに向けて放たれた銃弾が、置き去りにされたバルタザールに当たり、そこからバルタザールが徐々に死んで行く姿を、まるで動物の自然死の生態のように撮っていて、こんなラストにもブレッソン的な徹底性が感じられる。

50年以上も前に作られた映画だが、未だに強烈な凄みを発している、途方もない大傑作な一篇。 2018/01/20(土) 09:59:08 外国映画 トラックバック:0 コメント(-)

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