0線の映画地帯 鳴海昌平の映画評

『ブレードランナー2049』




ドゥニ・ヴィルヌーヴ『ブレードランナー 2049』、

2049年、地球は荒廃が進み、貧困と病気が溢れていた。

かって反乱を繰り返したレプリカントによって製造会社のタイレル社は潰れ、それを買い取ったウォレス社によって、労働力としてより改良されたレプリカントが製造され、人間社会との間に均衡関係を保っていた。

しかし旧レプリカントは人類に反乱をもたらす存在として、捜査官のブレードランナーが取り締まっていた。

LA市警のブレードランナーで、最新型レプリカントのネクサス9型であるK=ライアン・ゴズリングは、かって反乱を起こした旧式のネクサス8型のレプリカント、デヴィッド・ラウティスタを捜査し格闘になり抹殺するが、その際に見つけた古い木から女性レプリカントの帝王切開の跡のある遺骨を発見し、生殖能力がないはずのレプリカントが出産していた事実を知らされる。

Kの上司の警部補=ロビン・ライトはレプリカントが出産した事実を隠蔽するように命じ、生まれた子供を「引退」させるようにも命ずる。

Kは、レプリカント開発を行うウォレス=ジャレッド・レトのもとで大停電で喪失したデータの中、残ったデータを調べてもらい、出産したレプリカントの名前がレイチェルであることを知る。

Kはレイチェルが、かってはブレードランナーだったが、30年前に消えたデッガード=ハリソン・フォードと恋仲になり一緒に行方をくらました女レプリカントの名前であることを知る。

一方ウォレスはレプリカントの出産から生まれた子供を使って、レプリカントの生殖能力を高めて、自身の事業の拡大を狙っており、部下のレプリカント・ラブ=シルヴィア・フークスに警察へ行かせて遺骨を盗ませようとする。





公開前、前情報無しで観て欲しいという監督側からの意向を知ったので、先に公開された前日譚である3本の短編映画、渡辺信一郎監督のアニメーション「ブレードランナー ブラックアウト2022」と、ルーク・スコット監督による「2036:ネクサス・ドーン」と「2048:ノーウェア・トゥ・ラン」を観る以外は、出来るだけ情報無しの状態にして本篇を観たが、しかしながら、こちらの予想を遥かに上回る圧倒的な大傑作だった。

カルト映画と呼ばれる作品の続編映画で、監督が変わって、ここまでの出来に仕上るというのは、もはや偉業と言っていいレベルだろう。

まさにドゥニ・ヴィルヌーヴ監督、恐るべしである。

2時間44分、全く緊張感が途切れることなく、強烈で隙のない画面の強度の迫力が全編を覆い尽くし、まさに「これが映画だ!」と誰かが叫んでもおかしくないほどに、映画館の大スクリーンと音響があまりにも似合う、実に素晴らしき続編であった。

壊滅寸前のような不均衡さで乱立する燻んだ建物に激しく落ちてくる雨水や、ケバケバしい電飾看板。
不穏さしか伝えてこない、まるでスモッグだらけのような暗い大気や、人々がごった返す終戦後の闇市のような街並みと、そこに棲息しているようなホログラフィーなどなどの、あのブレードランナー世界が見事に復活し、そこにノワール映画のような光と影(というか影と影)、退廃的な廃墟のような建物や工場が映しだされるのと同時に、不気味すぎて審美性すら超えているSF的空間の数々が徹底的に積み重ねられている。

この撮影監督ロジャー・ディーキンスによる、強烈な映像の過度の徹底的積み重ねが、映画の最大強度を実現しており、まさに画面を観ていればわかる映画なのである。

また、30年前からの前日譚も含めた、その伝説的な物語性や、そこに溢れる人間とレプリカントの哀しみに満ちたエモーションや人生の影、主役のライアン・ゴズリングのクールでソフト&ワイルドな存在感がヴィルヌーヴ監督の静かなる語り口にピッタリで、彼が乗りこなす(プジョー製らしい)スピナーのあまりのカッコ良さなどもこの映画の大きな魅力である。

ホログラフィーとしてのライアンの恋人アナ・デ・アルマスの情感溢れる存在感が、儚さとエモーションを、人間でもレプリカントでもないのにダイレクトにこちらに伝播してきて、後半、危機的な状況でアナがライアンに叫ぶ悲痛な愛の言葉など、さすがに胸に沁み入る。

前作「ブレードランナー」が、SFにしてハードボイルド・ノワール、そして情感溢れる恋愛映画でもあったように、この続編もそれを完全に継承しており、自らをレプリカントだと思っていたK=ライアンが、ひょっとしてレイチェルから生まれた子供は自分ではないかと自分探しをする旅=捜査が、まるで謎めいたサスペンス・ホラーのような不穏さで描かれていく醍醐味などもこの映画の確実な強度となっている。

そして後半に登場するデッガード=ハリソン・フォードの硬質な存在感がさらに映画を引き締めている。

フォードが登場してから映画はさらなるアクション展開を迎えるが、そこも光と影、というよりブレードランナー的影の暗さと人工的な電飾性の破片性に満ちた空間で描かれる。

レイチェルや生まれた子供、反乱するレプリカントや、デッガード=フォードの真相が明かされていく終盤のミステリ的展開の中、K=ライアンの真実も明らかになって映画は終わっていくが、寒々しい冷徹な空間に、小さな温もりや灯がともったようなラストに、レプリカントの儚さと孤独が漂う終わり方も実に感慨深い。

ウォレス役のジャレッド・レトの不気味な陰謀家としての存在感も見事だが、前日譚「2048:ノーウェア・トゥ・ラン」の主役と言っていい旧型の違法レプリカント、デヴィッド・ラウティスタの凶暴だが哀しい存在性や、かなりバイオレントな敵のレプリカント、ラブ役のシルヴィア・フークスの迫力、またはロビン・ライトやカーラ・ジュリ、バーカッド・アブディ他などなど、全ての役者陣が皆、かなり見事に好演し、気迫の存在感と名演を見せているのも、この映画の大いなる強度である。

そんな、あまりにも素晴らしき続編となった大傑作な一篇。 2017/10/31(火) 00:13:32 外国映画 トラックバック:0 コメント(-)

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