0線の映画地帯 鳴海昌平の映画評

『我が家の楽園』




フランク・キャプラ『我が家の楽園』再見、

富豪の実業家・エドワード・アーノルドは、工業用地のための買収で後一軒を残して買収完了というところまできたが、ライオネル・バリモアの奇妙な老人の一家が立退かないため計画はフイになりそうだった。

一家には様々に風変わりな人たちが一緒に住んでいた。

エドワードの息子ジェームズ・スチュワートは、会社の秘書で恋人のジーン・アーサーにプロポーズするが、実はジーンは立退かない一家の孫娘だった。

それを知ったエドワードは結婚に反対する。

困ったジーンはエドワード夫妻に気に入ってもらうために夫妻を自宅に招くが、一家の奇妙な人たちの自由すぎる奇天烈行動が、エドワード夫妻の機嫌を悉く悪くしてしまい、挙句には警察がやって来てスッタモンダしたことから花火の事故に発展し、夫妻を含むその場に居た人間たちは皆警察に拘留されてしまう。




元々はブロードウェイで大ヒットした、ジョージSカウフマン&モス・ハートのピューリッツァー賞受賞の戯曲を、フランク・キャプラが映画化したヒューマンコメディ映画。

1938年のアカデミー賞・作品賞、監督賞を受賞している。

拝金主義で社会的成功しか考えないエドワードと、かっては同じ生き方をしていたが、ある時から自由に楽しく生きることを信条として会社を辞めたライオネル老人の姿が対比的に皮肉を交えて描かれていくが、娘のジーン以外は奇妙な変人ばかりが住んでいる一家の描写とキャラ設定が面白い。

特に元レスラーで、今はバレエを教えているロシア人=ミッシャ・オウアは特に変テコキャラが顕著で、見た目も変人ぽいが、エドワード夫妻が一家を訪れた時も一人だけ全く空気を読まずに言いたい放題、挙句にはエドワードにプロレス技をかけて投げ飛ばす始末で、その自由すぎる無茶苦茶行動がかなり笑わせる。

エドワード・アーノルドも、ジェームズ・スチュワートも、ライオネル・バリモアも皆好演している。

結局花火の事故でエドワード諸共警察に拘留されるが、ジーンはあまりに分からず屋なエドワードに怒り、息子のスチュワートとの婚約も解消すると叫び出す。

ライオネルも終始楽しそうに生きていたが、拘留された時にはエドワードに怒る。

だがエドワードも、その後かってのライバル的友人に忠告され、その友人が死に、息子のスチュワートにまで去られたことで寂しくなり、自分の生き方に疑問を持って、最後は土地をエドワードに売って一家離散寸前だったライオネルのところへ行き、改心して親交を温めるに至る。

全体的にキャプラらしい洒落た喜劇になっているし、一家の奇天烈な人々のキャラも楽しいが、やはりこの映画の白眉はこのラストのエドワードとライオネルの和解における演奏場面だろう。

友達と仲良く親交するということを、それまでの競争人生でしてこなかったエドワードが、どうすればあんたのようになれる?と聞くと、それに対してライオネルは格式ばった友情論やら説教臭いコミュケーション論をエラそうに並べたりせず、エドワードと一緒にハーモニカを演奏する。

すると、一家の住人たちがそれに合わせて演奏し始め、踊り出し、場面は一気に陽気なミュージカル的演奏場面に様変わりしてしまう。

しかしそこで、皆と同じように笑いながらハーモニカを吹く楽しそうなエドワードの表情を映すだけで、エドワードが聞きたかったことの答えの真意も、ライオネルの信条の本質までもが一瞬にして明確に顕在化してしまうのである。

映画全体のキャプラの洒落た喜劇描写も秀逸なのだが、このラストの演奏場面の描写にこそ、さらなるキャプラの小粋な真骨頂が露出していると思う。

昨今はクライマックス場面でやたらと説明したり、妙に説教臭く台詞をダラダラ並べて感動話にしようとしたり、安っぽいお涙描写に安易に流れる映画が多い。

だが、こうした小粋にさらりと映画の本質を露呈させる見事な描写を、今の時代の映画もやはり忘れてはならないと思う。

まだまだ学ぶところの多い、古典的なヒューマン喜劇映画の秀作な一篇。



2017/01/31(火) 00:27:38 外国映画 トラックバック:0 コメント(-)
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