0線の映画地帯 鳴海昌平の映画評

『散歩する侵略者』




黒沢清『散歩する侵略者』、

長澤まさみは、数日間行方不明だった夫・松田龍平が、別人のような態度になって帰ってきたことに戸惑う。

松田は奇妙なことを言いながら、毎日どこかへ散歩に出かけるようになるが、たまたま来ていた長澤の妹・前田敦子は松田と接した途端、長澤に不可解なほどによそよそしくなる。

町では一家惨殺事件が起こり、女子学生の恒松祐里が行方不明になっていたが、取材を進めるジャーナリストの長谷川博己は、自分を宇宙人だと名乗り、地球を侵略に来たと言う高杉真宙に出会い、行動を共にするうちに徐々に異様な事態に気づく。

国家が動き出し、かなり不穏な空気に包まれだした頃、長澤は松田から「自分は地球を侵略しに来た宇宙人だ」と告白される。





黒沢清監督が劇作家・前川知大の劇団イキウメの人気舞台を映画化した作品。

終始ヘラヘラしている上にクソ偉そうな侵略者の二人、恒松祐里と高杉真宙には、正直ずっとムカついた。

しかしいかにも黒沢清映画らしい演出で描かれているし、ムカつくほど人間の常識が通用しない常軌を逸した存在として侵略者を描いているようにも思え、見た目がモンスターのような宇宙人も宇宙船も出てこない中で、逆に侵略者としての宇宙人=モンスターのリアリティを追求しているような気もしてくる。

長澤まさみの反応の不自然さにも失笑させられる場面が随所にあった。

特に長澤が、松田龍平が地球を侵略に来たことを長谷川から知らされた後、車の中で、侵略に来たことを何で言わなかったのかを松田に聞く場面など、まるで会社をリストラされたことを何で言わなかったのかと旦那に聞いてる妻のような言い方で、ことは地球侵略話なのに、そのあまりに日常的な会話ぶりには失笑するしかなかった。

しかし黒沢監督のことだから、人類存亡の危機を日常会話的な演出で描くというのも、ワザとやっているような気もしてくるが。(それにラストへの伏線になっているとも思える。)

ただ、侵略者は人間の身体を転移し、乗り換えていくらしいのだが、それでも銃撃すれば肉体は死ぬのに、国家側がそれを中々しないのはご都合主義にすぎる。

その上、二人の侵略者は地球侵略の準備が整ったからと、最後のツメもしないで、身体が破壊された後、他の人間の身体に乗り換えもせずフェイドアウトするのだから、乗り換え設定は結局全く使われないままだったりする。

国家側の上層部も笹野高史一人だけに代表させているショボさで、ちょっと国家側の描写が薄すぎる気もする。(まああまりそっちを大仰に描くと、ドラマ的に焦点がボヤける難点も生まれるから難しいところだが)

また誰もが、見も知らない子供の身体の侵略者に屁理屈並べられて「想像しろ」と言われると、皆がイチイチ言いなりになって侵略者に人間の概念を奪われるというのも不自然すぎるし、この設定は、どうにも黒沢監督の「CURE」の可愛らしいパロディコントみたいにも見えてくる。

長谷川博己は侵略者のサンプルとして生き延びたくて最後人類を裏切ったのかもしれないが、その辺りの描写も不明瞭である。

ただ長谷川博己は黒沢清映画似合うなとは思ったが。

地球侵略に関し、最新の科学データや知識を披露して、もっともらしくリアリティを積み重ねようとは全くしていないし、侵略者の侵略装置もいかにもハンドメイドな見た目で、理工系ではなく、文系のSFを思わせる。

ただ途中ちょっとだけ出てくる東出昌大の牧師にはかなり存在感があり、全体的に60年代のB級SF映画か、SF短編みたいなテイストがいい味わいになってはいる。

この映画は松竹映画(&日活)だからか、ついついかっての松竹SFホラー『吸血鬼ゴケミドロ』『吸血髑髏船』『昆虫大戦争』の末裔的作品にも思えてくる。

黒沢映画らしい不気味な影の描写も、かなり不穏な気配を漂わせていて健在である。

また、ハリウッド黄金期の恋愛喜劇映画みたいなサントラを、殺伐としたシーンでも流すセンスも悪くない。(その他ハリウッド黄金期にアンソニー・マンとかが昔よくやっていたような、屋内と屋外をワンショットで捉えて、そのままカメラを移動してワンシーン、ワンカットとして撮ってしまう古典的な描写の場面も良かった。)

それに何と言っても、荒唐無稽な設定のお話をかなり不思議な蛇行した展開で描いているので、そこそこ長い上映時間なのにまるで飽きさせないのも秀逸である。

そして、この映画の最大の美点である、最後のオチの、実にさらりとした見せ方=終わり方はもう素晴らしいの一言だったりする。

このラストのオチを見て、長澤まさみの妻役がいかに適役だったかがよくわかった。

ここからは、ややネタバレになるが、
結局、この映画は「愛は、地球を、人類を救う」という映画だと思う。

それも長澤まさみの愛の概念が人類を、地球を救ったのだろう。

侵略者松田龍平は、長澤から愛の概念を奪うのだが、たぶんその瞬間、侵略者松田に愛の概念が充満し、それが地球侵略をやめさせたのだろう。

長澤まさみは夫の松田が侵略者であり宇宙人だと知っても、松田から離れず、松田を救おうとしていた。

その場面は地球侵略話をしているのに、あまりにも日常的すぎて、失笑してしまったことは先に書いたが、しかし実は、この失笑を誘うほどの長澤の「日常的な愛情の概念の方が地球侵略なんぞより上」という価値観が、それを奪った侵略者を変貌させてしまったのだから、先の長澤の不自然にも見えた対応は、やはりラストへ向けての伏線だったのだろうと思う。

ラスト、愛の概念を、まるでかっての侵略者たちのように失った妻・長澤のそばで、逆に愛の概念を長澤と入れ替わりで移植された元侵略者の夫・松田が「ずっと一緒にいる」と言ってエンドとなるが、やはりこのさらりとした終わり方というか、ラスト一言で多元的に全てを語るオチの見事さに救われている映画だと思う。

そういう意味では、結局中々の佳作になっている一篇。 2017/10/10(火) 03:15:31 松竹 トラックバック:0 コメント(-)

『敵は本能寺にあり』

大曽根辰保『敵は本能寺にあり』、

明智光秀=松本幸四郎(初代 松本白鸚)は、信長=田村高廣から丹波国の平定を命じられ、その時、丹波八上城の波多野兄弟を降伏させるが、光秀は自分の母を人質にして、波多野兄弟を助ける約束をする。

しかし信長は兄弟を磔刑にしてしまい、光秀の母は、約束破りに怒った波多野の家臣に殺されてしまう。

悲しみに暮れる光秀だが、信長にはそれから手厚くもてなされるようになるも、ライバルの羽柴秀吉=河津清三郎はそれに嫉妬していた。

だが、光秀のすでに恋人がいる娘を森蘭丸=松本万之助に嫁がせるように言う信長の命令を断ったために、光秀はまた信長の逆鱗に触れ、冷や飯を食わされる扱いを受ける。

その後、光秀は事あるごとに信長から辛い扱いを受け、徐々に信長への怒りをたぎらせていく。




池波正太郎のオリジナルシナリオを映画化した、明智光秀を主役にした戦国時代劇。

松本白鸚が光秀で、田村高廣が信長なのに、秀吉役を悪役多しの河津清三郎が演じており、つまりこれは一番狡猾な悪役を秀吉にしている解釈の映画である。

実際河津の秀吉はヘラヘラしながら、光秀を陥れるようなことばかりやり、そのくせ最後は信長の仇を討った良き家臣顔する狡猾な存在として描かれている。

光秀は信長の無理に振り回されながらも、飲めない話は拒否するのでその度に信長を怒らせ、冷や飯を食わされるが、信長の冷遇が度を越し始めて、とうとう追い詰められた光秀が信長を討つに至るという風に展開する。

光秀が信長に追い詰められる度、まるで舞台劇のように、光秀にだけスポットライトが当たり、周りは暗転するのが効果的で、わりとメリハリの利いた映画にしている。

また信長に追い詰められ、それに耐えに耐えながらついに本能寺襲撃に至るプロセスにもわりとメリハリがあるので、そこに醍醐味がある映画になっている。

光秀役の松本白鸚が耐えに耐える悲劇的な役どころを好演しているし、田村高廣の信長役も中々いいが、信長は別に完全な悪役という風でもなく、実は秀吉以上に評価している光秀に良かれと思ってやることが逆に光秀を苦しめる結果となり、それ故にだんだん光秀とソリか合わなくなってくる存在として描かれている。

だからこの映画ではやはり、秀吉が一番狡猾な悪党として描かれ、結局信長も光秀も秀吉の狡猾さに踊らされて破滅していくという展開である。

脇に淡島千景、岸恵子などを配し、徳川家康役を嵐寛寿郎、悪役として描かれる森蘭丸を中村万之助時代の中村吉右衛門が演じていて(光秀役の松本白鸚は父)中々の豪華キャストである。

光秀が信長を討った真相は、光秀の子孫の人の研究では、実は信長は、徳川家康を本能寺に呼んで光秀に討たせようとしていたが、光秀はその話を聞いて、そのうち明智一族も滅ぼされると思い、家康と光秀の談合の結果、本能寺の変に至った、という新説がある。

また近年見つかった文書から、信長が四国の長宗我部氏への対応を変えたことから、長宗我部氏の交渉役だった光秀が面目を失い、追い詰められた光秀が本能寺の変を起こしたとする「四国説」が浮上し、実は光秀は足利義昭と組むことを構想していたのでは、という説も出て来ている。

まあ戦国武将の解釈はどうしても中心に見る武将によって見方が変わることがあるので、他の戦国時代劇ではこの映画ほど光秀を人間的かつヒロイックに描いてはいないように思う。

しかしいずれにしても、光秀が信長に追い詰められたという部分は共通しているから、追い詰められ方には諸説あっても大筋ではこんな感じだったのかもしれない。

また秀吉を意図的に悪役として描いているのは、オリジナルシナリオを書いている池波正太郎の意図なのかもしれない。

戦闘場面にもわりと臨場感があるし、中々メリハリの利いた、スッキリした出来の秀作な一篇。

2017/10/03(火) 00:06:14 松竹 トラックバック:0 コメント(-)

「黒の天使 VOL.1」




石井隆「黒の天使 VOL.1」再見、

ヤクザの抗争が勃発し、幼少期に親を目の前で殺された葉月里緒菜は、若頭の飯島大介の自己犠牲と、黒の天使と言われた女ヒットマン・高島礼子に助けられアメリカに逃げる。

数年後、大きくなった葉月はヒットマンとなり、親の復讐のため日本に帰国。

跡目を継いだ元幹部の根津甚八は、今やヤクザ社会を支配していた。

だが義姉の小野みゆきは根津の愛人となり、リスペクトしていた高島がヤク中になり、根津の情婦になっていることに葉月はショックを受ける。



石井隆の女殺し屋を主人公にしたノワール活劇映画。

冒頭抗争の最中、葉月(の子供時代)を助けてヤクザを殺しまくる高島がかなり決まっているが、高島はその後ヤク中に凋落し、大人になって復讐のため帰国した葉月が幻滅してしまうシーンは二人にとって辛いシーンである。

石井隆的光と影のノワール映像が終始効いている中活劇が展開するので、シンプルな筋のお話だがわりと飽きずに観てられる。

根津甚八、鶴見辰吾、椎名桔平ら石井隆映画の常連がきちんと脇を締め、その中で葉月が暴れまわる展開になっているが、それでも葉月が相棒役の山口祥行とホテルでヒップホップダンスを踊るシーンなどは余計だろう。(苦笑)

結局葉月の本当の父を巡る話などでドラマが深まってはいくものの、まあ映画ではありがちな数奇な運命ってやつが描かれるばかりで大した捻りもないが、ただそれを描く光と影の石井隆的ノワール映像が悪くないので最後までわりと引っ張っている。

葉月里緒菜は悪くはないけど、随所に出てくるガキっぽい芝居が興醒めさせるが、それでも役には合ってる方だろう。

小野みゆきにはもう少しギラついた役をやってほしかったが、その存在感が石井隆ワールド構築に一役買ってはいる。

飯島大介が随分目立ついい役をやっているところなどは、中々ナイスなキャスティングである。

これで完全にいいわけではないし、石井隆ならもっとエグい展開にすべきだろう、もう少し何とかなりそうなものだが…とも思うのだが、それでもシンプルなお話を石井隆ワールドのテイスト全開のノワール映像で描ききったところなどはわりと良い、そう悪くもない一篇。




2015/10/31(土) 04:56:56 松竹 トラックバック:0 コメント(-)

「梟の城」

梟の城 [DVD]梟の城 [DVD]
(2005/03/02)
中井貴一、鶴田真由 他

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篠田正浩「梟の城」再見、

中井貴一の伊賀忍者は織田信長の伊賀の乱における侵攻の仇を討とうと陰棲していたが信長は死に、生きる希望を失っていた。

しかしある時太閤秀吉暗殺の命を受け動き出すが一人の女と情を通じるも、それは中井を見張るクノイチだった。





篠田正浩による忍者時代劇。

80年代以降は妙に大味だったり綺麗ごとのような映画ばかり撮るようになり、かっての松竹ヌーベルバーグ時代の冴えがなくなってしまった篠田正浩だが、このような政治がらみの忍者時代劇なら昔の勘を取り戻すかと期待して封切り時に見に行ったが、やっぱりダメだったことで落胆した覚えがある映画である。

まあ確かに日本映画としては出来るだけダイナミックに忍者の活劇シーンを撮ろうとしているのはわかるが、なんだか通り一辺の技術に頼ったようなシーンばかりだし、かっての篠田らしい内実への凝りようや問題意識はあんまり出ていない。

それまでの80年代以降の作品や引退作「スパイゾルゲ」よりは多少マシだが、しかし住時の篠田作品の魅力にはほど遠い出来である。

確かに時代は違うがそれにしたってこれは篠田にはうってつけの題材だと思うが、娯楽映画にすることと自身の映画にすることの間で揺れていたのか、どうも中途半端な感じがする映画である。

松竹ヌーベルバーグの作家は大島渚も吉田喜重も苦労しながら老境に至っても自身の作家性を貫徹しているのに、その中では一番易々とメジャー系で映画を撮り続けていた篠田正浩が最も精彩を欠いた映画ばかり連発しており、結局最後まで作品的にはレベルを下げたまま引退してしまった。

大島が大病しながらも監督復帰を夢見、吉田が21世紀になってから「鏡の女たち」のような驚嘆すべき大傑作を撮っているのに、やはり篠田はメジャーに迎合しすぎてどんどん劣化してしまった感がある。

正直80年代に横溝正史原作の駄作映画「悪霊島」の体たらくを見た時にもかなり落胆したが結局篠田はメジャー迎合が祟ってか最後まで最盛期の才気を復活させることなくどんどん劣化して終わった感じである。

この映画は劣化傾向の篠田作品の中ではまだマシな方だが、それでもいい出来とはとても言い難い一篇。

2013/11/15(金) 14:03:49 松竹 トラックバック:0 コメント(-)

「震える舌」

あの頃映画 「震える舌」 [DVD]あの頃映画 「震える舌」 [DVD]
(2011/11/23)
渡瀬恒彦、十朱幸代 他

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 野村芳太郎「震える舌」再見、

 ある時、小さな少女、若命真裕子はちょっとした怪我をする。

 だがその後歩きたくなくなり、怪我を軽く考えていた渡瀬恒彦と十朱幸代の父母が病院へ連れて行くと破傷風にかかっていることがわかる。

 だが病状がどんどん悪化していき、父母も看病疲れになる。





 医療映画風ホラー映画。

 これは昔封切りで最初観に行って驚いた記憶のある映画である。

 映画自体そう傑作とも思わないし、ホラーとしてもそう大したものでもなく、医療映画とホラーの合間なんていう変なスタンスの中途半端感が出まくっているのだが、しかしながらひたすら娘の若命真裕子が不気味なのだ。

 可愛らしい半分素人な感じの小さな女の子がただ病気になってるだけなのに、何かすざまじいものに取り憑かれたなんだか訳のわからない存在になっていくからである。

 当時流行った「エクソシスト」だって悪魔に取り憑かれたリンダ・ブレアという訳のわかるものだったのに、病名のはっきりしている病気が悪化しただけの少女がなんとも形容しがたい不気味な存在になってしまうのである。

 つまりここには悪魔だと幽霊だとかの非現実的絵空事の枠組みはなく、普通にこうやって病気にかかりそれが悪化してしまうことだってあり得る極めて現実的な設定と状況の中で、少女がその無垢な相貌ゆえに何だか訳のわからない存在になっていくのである。

 まあ当時も新感覚ホラーなんて言われたが、しかしここまで奇妙な映画になることを野村芳太郎ははなから予測していなかったと思う。

 それぐらいこの映画の若命真裕子には無垢ゆえのリアルな訳のわからない不気味さが出ている。

 これはたぶん「ウルトラQ」の「悪魔っ子」に匹敵するリアルなホラー映画だろう。

 あちらもお話はシンプルなものでしかないのに、悪魔っ子たる少女に訳のわからないリアルに無垢ゆえの不気味な存在感があったからである。

 その上この映画には長閑な家族映画や医療教育映画的な小さな詩情すらあり、それがまたささやかな小さな家族のメロウな幻想譚のような風情も漂わせているし、なんとも不思議にメランコリックな味すらも出している。

 いわゆる秀作とか傑作というのとも違う、これは実に異色の怪作としか言いようのない不思議な魅力の一篇。
2013/10/20(日) 14:20:17 松竹 トラックバック:0 コメント(-)
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